昭和56年8月19日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
お道の信心は限りない精進を続けて参りましても、広さにおいても深さにおいても限りがない。これで良い、もうここまでという事がない。大変だと極めるという事が中々出来ない。だから限りないおかげにも恵まれるわけである。しかもその限りない精進はいよいよ、昨日、お説教の中にも申しましたが、吉井の羽田野さんが言われるように、合楽のご信心が何十年でしょうかね、三十年あまり日参を続けて初めてあり難いもの、楽しいもの、そして愉快なものだというような意味が少しわかりだしてきたと言っておられますように、限りない精進。そこには喜ばしさ楽しさが伴うてくるのですからより本当のことから本当な事を求めていくそこに、より本当なおかげもまた伴うてくるということになるのです。今日のご理解などは私はいよいよ教祖金光大神が天地金乃神様よりそれこそ、天地の親神様の久しい願いであった、いわば和道十全の道というか、人間が人間らしゅう助かっていけれる手立てというものを金光大神に神よざしになって、それを金光大神がそのまま、お受けになられて、そして天地金乃神様より受けられたおかげをまたは、お話を残しておくのぞと仰るのが金光教の信心なんです。ね。ですからそういう風に申しましてそれが、本当なのかと、はあもう、(?)みんな自分の物が一番良いように申しますけれども、なら果たしてそれが本当な事なのかと。という事を私はならば、和道十全といったようなことを合楽理念の中に使うわけですけれども、本当に和道十全なのかと。そして、自分達が頂いてきておった、信じておった神様やら仏様やらというのは、いうなら和道十全ではないのかと。やっぱりそこんところを極めて行かなければならない。ただ、合楽にお参りをさせて頂いた、おかげを頂いた、そのおかげのあらたかさに、もう私は金光教に決めたといったような簡単な事じゃいけないと思いますね。昨日、行橋の御信者さんかたが皆でお参りをしてまいりました中に、毎朝、堀内さんところへお参りを致します。朝の御祈念にお参りをさせて頂いて教典感話を開かせてもろうてそしてその、教典感話を頂かせてもらう。それがもう一人一人にもう実に的確であるのに、まず驚いておる。おかげを受けるという事とこんなにも神様の一分一厘間違いのない働きを受けるという事でまあいうならば非常に、何というでしょうか、もうこの頃堀内さんというものはない。もう、堀内先生堀内先生というて、信者が慕うようになってきつつある。先だってから竹内先生達があちらの共励会に参るので、帰ってから一番先にお届けさせて頂いたのが、もう久しぶりにあちらに参りましたが、もう、行く度にご信者が増えておるという事。しかも神々しいばかりのお広前になっておるという事。もう社から八足から、確か、八足(?)三宝おかげ頂く、今度はお神酒錫なんかでも、(?)の高いその錫のお神酒錫をお供えさせて頂きたい。畳代は私がおかげを頂きたいというて瞬く間に、その、まあお広前が整う、小さいながらも整うてくる。おかげを受けるからです。皆が。だからそういうおかげを受けるから、もう一遍に金光教に傾倒してしまったといういわばおかげから入ったのでは私はいけん。
例えば今日のご理解なんかは一心と定めい。此の方一心と。定める為にはです、ここで言われる和道十全の道といわれるが、本当に和道十全なのか。そして今までやってきた宗教が、知らぬ事とは言いながら、いうならば、最近いわれるように、私共は、亡魂に取り付かれておるような信心をしてきておったというような事が本当に分かってそれを実証して、私は金光教、それには一心と定めるいうなら勇気がいると思う。誰が何というても。やっぱ、内には仏様で長年来ておるから、といっていつまでも、御仏飯もお供えせんならん、御神飯もお供えせんならんというな事しか、本当に相済まんですよね。いや、それでは本当のことにはならんです。ね。いよいよなら、和道十全というその事が分かったならより本当なことから本当のことに切り替えて行けれる信心。それを神様が喜び給うのです。ね。昨日その行橋から一緒に参ってきておるかたで、まだ、信心初めて長い事ないけれども、ある神様を拝んで、(?)さんのような事が出来れるような方がいわゆる金光教、合楽の話を頂いても、私が長年求めておった信心はこれだったというわけなんです。それで、今まで何か丁度、金光教と同じに八足やら、お社やら、大きなお社があるのだそうですけれども、それに、昨日参って来て昨日の話。前の朝お夢を頂いた。それをその、神様を二つお祭りをしておるという事はいけない。まあ、ご神前にその、飾りやら、一つの籠の中に、二匹入っておる。これを一つにしなければならないといったような意味のことを頂いたのだそうです。だからどうでも金光様のご信心一本にさせて頂きたい。(?)やら八足やらはもう金光教、あれと同じだからお社だけはこちらに持ってきて処分して頂きたいというわけなんです。
それもいい。そりゃ処分してあげれるところではないけれども、先日も伊万里のご信者さんで創価学会をしておった方達が、創価学会の拝む道具とか、まあ御仏体というでしょうか、私は空けても見ませんでしたけれども、大きな箱に一杯持って見えて、まあ処分させて頂く事にさせて頂いたのですけれども、私も昨日、ならこれはご主人も同意しておられるのかといったら、いや主人にはまだ言うておりませんちいう。ならもちっとお道の信心のあり難い事が分かりいうならばなるほど合楽の信心こそ本当の宗教の中の宗教である。成る程和道十全の道であるという事が分かって主人にも説明が出来るような、それが大分傾いてきております実は、その主人が、今日もあちらが大型の自動車ば買いましてね、その大型の運転が出来ませんから、主人が今日は運転してきて、此処までくる位におかげを頂いておるというわけ。信心はないけれども。けれどもそんなら、ご主人がね、本当に合楽の神様を拝まれるような気持ちになってからでも遅くない事はないじゃないだろうかと。今しなくてもというてまあ申しました事ですけれども、その本当な事が段々分かってくるということでなからなければならんけれども、ただおかげがあらたかだと、もう毎朝お参りをして間違いない神様の働きを受けて一遍でその傾倒してしまうという事はあり難い事ですけれども、確かめた上にも確かめてこの信心なら、孫の末まで伝えに伝えていって良い。私は確信が出来て改式もせんならん、いや、それは、ぐずぐずしておってはならん。本気で改式しなければならんと思う。より本当のことからより本当のことになっていくという事が、そのまま神様のお喜びである。昨日、行橋の堀内さんの息子の良太郎君ですね。まだ小学校六年生でしょうか、お知らせを頂いておる。これはもう、本当にびっくりするようなお知らせを頂くのですね。それが、和道十全とは末広がりの教導という事を頂いておる。私が皆さんに聞いておるのは、教導しておるわけです。この教導を皆さんが受けられるなら必ず、あなたのうちは、いわゆる親の代より子の代というように、末広がりになっていくおかげを受けられるそういう教導をお互いが受けておる。なら、ここに和道十全という言葉がでてくるようにです、本当に和道十全なのかどうかです、ね、勉強してみる、確かめてみる、そして実験してみる実証させて頂いてです、より、これが本当だと分かったら、本当な事へスキッと変えて行けれる私は精進がいると思うですね。
昨日の御月次祭私は大変嬉しいことがあった。というのは、皆さん御承知のように、先生方が十名で奉仕します。私の前に若先生が座ります。私の周りにはもう誰に似たのか知らんけれども、非常にろくそなかです。私はこればちょっとこげん、一分汚れとってもできんとです。けれども、ここが汚れておろうがどうしようがいっちょんお構いなし。私の若先生。よかよか主義なんです。例えばお手紙が来る、返事をすぐにださにゃん。もうよかよかでちゃんと出さんち、まあそういうような性格なんです。だから私共よりか大変楽なんですね。そげな性格の人は。けれども信心ではいかんそういう性格の人でも、やっぱりきっち、実意丁寧神信心。これが金光教の信心の芯のように言われますけれども、やはり、実意がなからなければいけん。丁寧でなからなければいけない。ね。私が、神様から色々と頂いて紋付袴でこうやって身を固めて神様の前にこうやって奉仕をする。それはもう、浴衣がけであって、良いですけれども、私が椛目時代に、足袋のお供えが夏の熱い盛りであった。足袋を履けという事であった。金光様の先生で足袋をはかないのが普通のようになっておりますけれどもね、それから、足袋をそれから三十年間、私は夏冬、私は足袋を外したことはありません。ね。
ですから、それは履かんほうが楽ですよね。大体。ジッと座っておるからもう、(?)くるから。けれども、神様がこれを実行せろと言わんばかりに足袋のお供えを次から次に頂きますので、私は足袋を履かせてもらうのですけれども、ね。本当なことという事が分かったらその本当な事を実行していく事が信心なんだと。私は昨日御月次祭を仕えながら嬉しいなと思ったことが初めて若先生が勺の持ち方を本当に持ったことです。御装束をつけて勺を持っておるでしょう。普通の先生方、真面目な先生方は大体勺というものはこの上に、腹のにきに、こうあげとかなん。きついですやっぱ。長い。けれどもその、膝の上にこうやって落としてから、ね、大概の先生がこうしておるです。勺をこうやってもって膝の上に置く。こうやって、こうやって置くのと、途中にこうやって高く持つという事は本当の事をすることのほうがやっぱきつか事あろうけれどもです、やっぱキチッとなるわけです。昨日ふっと見たら若先生が勺をこうやって持っておりますもん。嬉しかったですね。たった、それだけでも親は嬉しいのです。
ね。私はよう、それとはなしに、私はその、装束のつけ方一つ知らなかった。勺の持ち方も分からなかったけれども、長年信心してきておれば、見たり聞いたりしてきておるからそのくらいのことは分かる。いうなら私はいうなら一番体はきついのでしょうけれども、私はやっぱ勺を下に下ろした事がない、ちゃっと自分で勺は持つのです。ね。それをその、下にこうやって膝の上に置いてあると。私がずっとお祭りが済む間勺を上にこうやって持っておるのです。いやおかげを頂いた。より本当なことになる。親がそんなに嬉しいのです。私、親、私が子供が少しでも本当のことをしていきよると思うただけでも嬉しいのですから、これが本当だというなら分かったらその本当の事へスッと変身していくという事。変わっていくという事。しかもそれは、形の上に事だけではない、心の上に事もこれは限りないもの。ね。より本当なことからより本当なことを身につけていく。心にもそれを頂いていく。ね。一心を立てるという事はそういう事にたてなければならんのじゃないでしょうか。何々様。もう本当を言うたら、ね、そういう一切合切を合楽に持って来ていうなら天地に還って頂く。仏様でも天地の中に包含している。天地金乃神様の中に包含する。こちらにお仏壇が奉っちゃる、こちらには大神宮様が奉っちゃる、こちらには荒神様まであるといったような事ではね、そりゃもうぐるりぐーと手叩いて拝まにゃんごたる感じがする。ね。これは本当のことが分かったらそうしなければならない。けれどもただご利益があらたかだというて、なら昨日の行橋のご信者に御届けをさせて頂いたように、今まで拝みよった神様も合楽さえ持ってきてこうして頂くと。だからもちっと緊張しなさい。もちっと本当なことが分かりなさい。その本当のことの焦点がです今合楽で言われる和道、本当に和道十全なのか。人間が人間らしゅう助かっていけれる、人間が人間らしゅう助かっていけない宗教を子に孫に伝えていくのじゃなくてこの信心さえしときゃ間違いないぞといえるものを確かなものにして改めていく。ね。此の方一心と定めるという事はそういう事だと思うのです。
ね。その一心を出すとすぐにおかげが受けられると最後に言っておられるのですからというて、お話を聞いたけんで早速という、のじゃなくて本当にもっともっと合楽の信心を研究していく。とりわけ合楽で言われる合楽理念の勉強を本当にさせてもろうて、宗教以前の宗教と言われるが本当だなあと、前代未聞だと言われるが本当に前代未聞の教えだなあという風にです、確かなものにして分かってそしておかげを頂いて、私は分かるところが分かったら、もう本当に草木でも芯というたら一つじゃと仰る、その一つに決めていかなければ絞っていかなければいけない。本当のことが分かって本当の事に実行するというだけでも私は若先生の姿をみて嬉しいことだなあと思ったように、本当なことに転身していくその姿に神様も喜んで下さらん事はない。喜んで下さらん事はないという風に思うですね。
どうぞ